昭和49年06月02日 朝の御理解
御理解 第5節
「これまで神がものを言うて聞かせる事はあるまい、何処へ参っても片便の願い捨てであろうが、それでも一心を立てれば、和賀心に神が御座るからおかげになるのじゃ、生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだ事無し、この方が祈るところ天地金の神と一心なり。」
是まで神がものを言うて聞かせる事はあるまい、何処へ参っても片便の願い捨てであろうが、是までは何処へ参っても片便の願い捨て的な信心、と言う事はここへ参って来ると神が日々それに応えて下さる、という意味だと思うですね。ここへお参りをして来ると、それでもやはり一心を立てると、あそこに奇跡が起こったりおかげを受けたり、するのは和賀心に神が御座るからであり、又はあぁでもなかろうか、こうでもなかろうかと、色々改まる事に磨きぬく事に、心を寄せてもろうていうならば。
心に探りを入れる様な、例えばお話しならお話しを頂いて、そこにま言うならば薬を飲むのに、薬を与えるのにどれが効くか解らん、それであの薬この薬と飲んでみとる内にどれかが効いて、例えば病気が治ると云う様にね。ただ神がものを言うてくれるという、ここのところを頂けるのはこの方ここだけだというふうに言っとられる訳ですね。例えば様々ななら、金光様だけではありません。
お説教やらお話しね良いお話を聞いて、はぁ自分がほんにおのお話しから、あそこが自分が改まりの所じゃったと、いうふうに解って改まったりするとまぁ、磨いたり又精進したりする、それでもやはりおかげにゃならんけれども、もうまあそれで色々してる内にどれかがあちこっちになって、どれかが当たる訳です、でそれでおかげを頂くと言った様な事。けどもここではね、ここではその的確に効く、例えば病気で云うならば的確に効く、例えばお願いをするお御返事を頂く。
御返事をそのままに有難く頂いて帰ればです、それは舟にも車にも積めん程の神徳になったり、又はそれがおかげになったりする訳です。私はここで皆さんが御理解頂かれるのはそういう意味でですね、神様の御返事を的確に頂いて行かにゃいけんです、だって本当にそれ頂かにゃいけんです。今朝も御祈念に、もう医者も見離したと云う、又は、その方のおかげを頂いておる教会の先生も、もう難しかと言よんなさる、それは大変な、まあ医学でいうなら病気らしい、その方の事をお願いさしてもらよりましたら。
今度はゴムバンドを頂いたんですよ、ゴムバンドがこうやって八の字のごとなっとるこうやって、ここにこう二重にすっるとこげなふうに、だからこげぇんしとったら十年経ったっちゃこげんしとるです。それどげんたっちゃ十年たったちゃこう、そして是が元で例えば死ぬと言う事になるかも知れん、こげんなっとるけれどもね、もし神様がちょっとこうやって当たって下さるとこれが丸ぁるなる、そげん簡単な事なんです。
神様がおかげを下さるということは、まぁそれを、それでは奇跡とこうまぁ云う訳ですね、けども神様がおかげを下さるということは、その様にいと簡単こりゃ私共から言うていと簡単じゃない、神様からご覧にんなるといと簡単ね、こげんしとるとをここにこうしとったっちゃ、それこそ十年経ったっちゃこれは決してそれはこの様にしとる、ここから見てもろうたら、こうこうあつかよる様なもんじゃね。
所謂神様が是をおかげ下さろうと言う事にねると、ちょっとこうやって当たって下さったらこう丸くなるゴムバンドでこうやってそのもう、教えて頂いた事をこうやってやっぱこれはまぁ時代いうのじゃなかろうかとこう思ったんですけどね。それで簡単な事でおかげを頂くと言う事、そこでならそういう簡単な神様の目からご覧になれば、そういう簡単なおかげをうけられる為に、神様がどうその方に対してもの言うて下さるか。そしたら彼が屑の子の自覚が出来たらとこう仰られる、くずの子の自覚が出来たら。
これが神様のご返事、私は此の事を頂いてから思うんですけど、本当にもうくずの子の自覚と云う事はね、そんなに素晴らしい事だと、始めてくずの子程可愛いと仰る意味が解る気がするといたします。例えば私しは教会で総代の御用を頂いておる、私は幹部でこういう様な役を頂いておる、私はこの位のお役に立っておる、自分なこんな信心をしよる、いう様なあの、ものでは無くて、本当に私の様な者がようもこんにちまで、お生かしのおかげを頂いておると言うだけでも。
というその私そこから謙虚なものが生まれて来ると思うんですね。くずの子の自覚とと言う事は。これはもう私共でも同じこと、だから本当うに長年信心させて頂いて、自分がいっぱしの御用が出来ておる様に思うとた、信心は自分の上は無か事思いよった、けれども実際こういう難儀に直面して見てです、始めて私の様な者がと言う事が解ったと言うか、一人目が開けた時です。
神様はそういうおかげを下さろうというのですから、是は昨日からだけの事ではありません、お互いが愈々もってくずの子の自覚、くずの子程可愛いというて神様が、手を掛けて下さりゃここにこうなるとですから、神様がずっと手を掛けて下さいます、本当に自分というものが解らない人の事は解るけど、自分の事は解らない、自分の内容が解らない。あれが悪い是が悪い自分な一っつも悪くはない、信心とはそう言う事ではなくて、愈々ぎりぎりの自分自身が解らして頂いて。
自分の様な者に、私の様な者にと、そこから私はへりくだった信心というか、愈々実意丁寧の信心というのは、そういうところから頂けるのじゃないでしょうか。もうこん位なことよかよかという様な事はとても出来ない、自分の自分と解ってきたとき、それでも神様はこの様なおかげを下さっておる、もう有り難とうして、勿体のうして相済まんと言う事に成って来る。私は是も改めてもう一遍ね。
あのこのくずの子の自覚と言うか、くずのと言う事を本当にこの内のくずの子の自覚をお互い作らせて頂かなければならないな、このくずの子の自覚と言う事がどれ程神様の心にピッタリと通うか叶うかと言う事、そういう姿勢で願うと言う事、そこに所謂生きた神様を信心するのですからね、生きた神様が、相手が死んだ神様ならばいざ知らずだけども、お伺いすれば返事をして下さる神様なのですから、生きた神様なのですから、痛い所があるならば擦っても下さろう、撫でても下さろう。
曲ってある所があるなら真っ直ぐにもして下さろう。くずの子程可愛いと仰せられる、神様のいうならば可愛いという手を当てて貰わなければならない。そこから又一段と、我が身は神徳の中に生かされているという、信心の喜びが新たなものとして信心の喜びが頂けてて来ると思うです。こりゃ私が今まで頂いて来たこれの事いうじゃなくて、本当な意味においてはね、くずの子の自覚作らなければいけない、何かこう折角のご理解を頂きながらあぁ迷い、こう迷いしてそこの所に腹が決まらない。
そう言う所からおかげが、ぐずぐずしている様な事はなかろうか、神様はもう一ヶ月も前からでしょうか久富勇さん、お知らせ頂いとるのにね、お前がおかげを受けるのはね、短気な心が何時までも取れんからじゃという意味な事を頂いとる、自分でもいわれるがとても自分は短気だすぐもやもやする、お夢の中で自動車でこう行っとる大きな声でこう、ところが向こうの方からこう自動車が自分の自動車ににぶっつけた、そでからもやもやしてから、向こうの運転手にすぐ出てから金玉を蹴上げた所を頂いた。
勇さんのほうが手を上げた方ですよ、そしてその後にそういう行為です。お前がこの短気がある、この短気がなおらなければおかげにならんと、様な事を言っとられます、これはもういうならばもう直前で夢の中でなら勇さんに言うてあるわけ、所がさあ何十年間浸み込んできた短気ですからね、もう自分がこうやって体が不自由で仕事が出来んと、もういらいらもやもや単純な事が起こる。
昨日も私が申しました、まえに少し調子の良かけんで、鍬取りしてからここをしなさった、さあもうあくる日じゃろ、体が動けんごとなってしもうた、ここまで来ておりながら御広前にも上がれんというに痛んだ、苦しんだ。是もやっぱりいらいらもやもやがこういう結果になるのである、だからもうあんたが一時二時じゃと奥さんに申しました、一時二時のの事じゃない、いつ神様はこうやって整理をさせて下さってあるとを、自分で無理する事はまいっときいかんよというてお話をした事ですけどね。
だからそういう例えばなら本当に神様が、ものいうて聞かして下さらんばかりにして下さってある、しかもそれはその人だけに下さってあるのですから、それを一つならどう言う様な心の状態になったら穏やかにおられるろうかと、豊かな心でおれれるだろうかと言う事を、一生懸命今こそ稽古をせんならんと言う事になれわけです。なら自分がなら本当に豊かな心に、やっぱほんなこちゃあるじゃろうかともう思うたらそれまでですよ信心ちゃ。そうだと信ずる事ですから。
なら私があんまりいっぱい簡単にそらほんなこっちゃろかと私は夕べ聞いたばっかりじゃもん、もう医者ももう絶対だめだから死ぬのを待つだけだと言われた、そこそその教会長の親先生もです、そりゃもう覚悟しちゃると言う事です。誰ぁれん神様もさじ投げて御座るという訳、それを聞かせて頂いて、そんならいっちょ合楽にお願いしょうかという様なね、まぁ気が起こってですたい、まあ今日おそらく御新米もっておいでられる訳でしょうっけども、私はその事をね。
書いて差し上げ功徳の時間が出来れば、是はもういと簡単な事だと、そこから又本当にお役に使うて頂けれる、おかげを頂かなければいけませんからね。私は今日は神はもの言うてくれる所はなかったろうがと、ここに仰っておられる事はここへ参って来ると、神がもの言うてくれるぞと言う事です、返事をしたやるぞと言う事、だからいくらして下さってもです、それを本当に信じて頂かなかったらだめなんです。
そこからね、そこからいうなら天も地も昔から死んだ事無し、生きた神を信心せよと言う事なんです、生きた神様、生きて御座るから今いう様に相手が死んどらんなら、死んじゃとないから今申しましたようにゴムバンドがこうして二重になってここにこうやったって、是が見とるだけだったら十年たったちゃ治らんです、見とるだけちゃとこげんやる丸うなるだけ、ちょいと手を当てて貰う事がです、所謂くずの子の自覚になった時にです、くずの子程可愛いという手が掛かるのです。
そこから普通から言うなら奇跡というなおかげになって来るけれども、神様の目からご覧になると、信心しておかげがあるは不思議とは言うまじきものぞ、信心しておかげが無いほうが不思議な事じゃと言う事になって来る訳です。今日は私は是までものを云うて聞かせる所は無かったろうが、片便の願い捨てであったろうが、けれどもここへ参って来ると返事は聞いて帰れると言う事を、私は合楽に参ってくると、その返事を聞いて帰れれろうがと、いうふうに頂いてまいりましたね。
どうぞ。